(2007年2月6日付け)
故郷 古座川町は今・・
40年ぶりに訪れた古座川町(和歌山県東牟婁郡古座川町)の姿を紹介します。

 私と古座川との関わりは,父の佐田発電所建設工事に始まる。父の仕事が発電所建設に関係していたため,一家が和歌山市内から三尾川の地に越してきたのは私が小学校2年(昭和28年)の春だった。半年近く追野々の借家に居住し,その後に真砂の職員用住宅に越したのは12月だった。
 真砂分校,三尾川小学校,三尾川中学校,古座高等学校でお世話になり,昭和42年に父が有田川の発電所に転勤するまでの14年間,古座川の豊かな自然の中で育まれた。
 あれから40年,還暦を迎えた今,我が人生を振り返ってみると,古座川の自然環境が私の人間形成に於いて大きなポイントとなったものと自覚している。平成18年春,千葉県庁退職を機に,故郷古座川を訪れることとした。そのきっかけは,平成15年,建築用鉄骨加工業界の専門誌である「鋼構造ジャーナル」担当記者さんとの雑談に始まる。古座川で経験した鮎やウナギの獲り方を話していたところ,同誌のエッセイ「暖流」の欄に書いてくださいとの依頼を受けた。そこで,一人3回のリレーエッセイのうち2回を古座川の話に当てた。
エッセイはこちらをクリック
 古座川と言えば,「清流」である。私が三尾川に転居したころの川はビックリする程の清流であった。小学2年生の時,三尾川で箱メガネから覗いた川の中を泳ぐ魚の様子は五十余年経った今も鮮明に脳裏に焼き付いている。今でも深い古座川への望郷の念はこの瞬間に身体に刻み込まれたと言っても過言ではない。
 このコーナーに転載させて頂いた「暖流」の文章にあるように,古座川ダム完成当初は青々とした湖であったが,その後は次第に濁るようになった。今回の旅は二つの目的がある。その一つは「古座川に清流は戻ったか」をこの目で確かめることであり,もう一つは「青春の想い出,中学校は今・・・」である。
 旅は車を使用するとは言え,かなりの強行日程を組んでしまった。初日は伊勢志摩,二日目は熊野三山巡りで紀伊勝浦泊。三日目に古座川を訪れてその日のうちに千葉に帰宅するコースで,古座川流域に留まっていたのは,僅か4時間程度であった。この間,乱写した写真は250枚に及ぶが,この中から私にとって思い出深いものを選んでみた。何でもないようなつまらない写真もあるが,私にとっては語り尽くせない程の思い出の場所もあるので,あえて掲載させて頂いた。
 是非とも最後の一枚までご高覧頂き,古座川の自然のすばらしさを理解して頂くと共に,清流を取り戻す妙案をご教授頂ければ幸いである。


平成16年度の主な事業
○勝浦温泉を出発して,目指すは古座川町
捕鯨の町( 旧 太地町)にて
勝浦を出発して国道42号線,太地町に入りました。江戸時代より捕鯨の町として有名です。前方に鯨の親子が見えます。
現中日ドラゴンズ監督の野球記念館の看板がありました。太地との関わりは,氏のHPによると,現役時代にトレーニングでこの地を訪れたのがご縁だとか。

○大島を望む

「ここは串本,向かいは大島・・・」 民謡にある大島です。
手前の小さな小島は九龍島(クロシマ)。画面に映ってはいませんが,右側に位置するのは串本です。
高校の校内マラソンでこの道路を走りました。海風が強く,前に進まなかったことを思い出しました。

○隣町の古座(こざ)町まできました

古座川病院
地域唯一の病院で,何度かお世話になった所です。
建屋は木造から鉄筋コンクリートに建て替わっていました。
当時は古座町でしたが,町村合併で「串本町」になりました。


平成16年度の主な事業
○古座川河口付近,これから上流に向かいます
国道42号線を右折し,古座川沿いに県道227号線(古座街道)に向かいます。
40年ぶりです。自宅から古座高等学校までは交通の便が悪く,1年生の2学期から古座町に下宿しました。
お世話になっていた下宿の建物は今でもありました。

○いよいよ古座川町です

県道227号線から38号線へ,懐かしの古座川町に入りました。高池地区から古座川上流の風景。40年前ここに橋はなかった!

○さらに上流へ

橋の手前にある道路標識
懐かしい地名なのでパチリ。
橋を渡らず直進します。
目指すは松根・平井方面です。


平成16年度の主な事業

○宇津木(うつぎ)隧道
県道38号線を進みます。
古座川峡一枚岩まで12kmの案内標識が見えます。
このトンネルも新しく造られたもので,当時は1車線の道幅で壁面はコンクリート吹き付けでした。


○少女峰  (古座川町月の瀬地区)
別名を十七ヶ嶽とも言います。十七歳の少女にまつわる伝説のある岩山です。
町では観光のポイントとして整備中で,脇の樹木を伐採しました。どのように変貌するのでしょう?
手前を流れる古座川の透明度が足りません。前日の雨の影響であることを願っています。

平成16年度の主な事業

○牡丹岩の案内板

○牡丹岩 月の瀬地区

牡丹岩は風化によって出来たもので,このような岩は上流の立合川まで幾つか見ることが出来ます。

○古座川

三尾川・真砂を目指して,さらに上流に向かいます。
かつての清流とはほど遠く,やや白濁しています。



○古座川町 明神(みょうじん)地区
手前の小さな橋は川が増水すると水の中に沈む潜水橋です。3枚合成のパノラマ写真です。

○明神橋
明神橋を渡って県道38号線を進みます。43号線は小川方面で,滝ノ拝という名勝地に至ります。小川上流にはダムが無く,今でも清流を維持しています。ときどきTVで紹介されています。樹木が色づいて見えています。樫の木の開花時期です。

○鶴川橋周辺まできました
橋を渡って左折,佐田方面に向かいます。ここから国道371号線です。昔は県道だったのに,昭和57年に国道に昇格したそうです。計画によると,大阪府の河内長野市から高野山,龍神を経由して串本に至るルートで,途中何カ所も未開通部分があるため,全線開通はずーっと先のようです。調べてみると,未開通区間は40年前と変わっていませんでした。


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○古座川峡 一枚岩
  「一枚岩」 古座川最大のビューポイントとうとうやって来ました。 思わずVサイン!!

○古座川峡 一枚岩

高さ100m,長さ500mの一つの岩からできています。国指定の天然記念物です。
大きくてカメラには収まりません。3枚の写真を合成しました。

○古座街道は作家司馬遼太郎氏の「街道を行く」で取り上げられました

司馬遼太郎氏の「街道を行く」は週刊朝日に連載されていました。古座街道は昭和49年頃書かれたものです。この街道には幾多の歴史があります。連載されたころは,すでに私の父も和歌山県庁を退職して千葉に戻っていたため,古座川に行く機会はありませんでした。私の望郷の念は,この紀行文を読んだ頃から始まっていました。 一枚岩の観光案内所

平成16年度の主な事業
○奇跡的に知人に出会う
 一枚岩の前に「一枚岩鹿鳴館」があり,ここで休憩を取りました。お茶を飲みながらマスターに話しかけました。会話が進むうち,1学年下のM氏と分かりました。
 中学時代は共に野球部の仲間でした。氏はセンター,私はファーストでした。
44年ぶりの偶然の再会に,当時の顔を思い出そうとしましたが,おぼろげながらの輪郭が浮かび上がるだけで,目前におられる現在の実像になかなかマッチさせることが出来ませんでした。
私のクラスは16名,氏のクラスは40名程度です。少人数なので,学年が違ってもクラスの氏名はほとんど覚えています。いろいろな方の名前が出るたびに,40数年前の過ぎ去りし青春が一気に呼び起こされました。
 そのとき,観光バスが到着し,大勢の観光客が降りてきました。彼は観光案内をするために席を立ち,河原の方に行ってしまいました。私も,これから三尾川小学校,中学校,住居であった佐田発電所の公舎を訪れ,しかも今日中に千葉に戻らなくてはならず,後ろ髪を引かれる思いで一枚岩を後にしました。その様な訳で,M氏の写真を取る時間がありませんでした。 機会を見つけ,再度訪問します。
一枚岩鹿鳴館の紹介URL: https://kozagawakanko.jp

○一枚岩 上流より撮影
小学校2年生の遠足でここに来ました。三尾川小学校から5kmぐらい下流に位置しています。

○天柱岩(てんちゅうがん)蔵土地区

ここは蔵土(くろず)です。三尾川まで2kmのところまで来ました。なつかしの光景です。親指のような巨岩です。天柱岩は学校からも見えました。


平成16年度の主な事業
○鉱山跡(1) 蔵土地区
戦時中に銅を採掘していたそうです。小学生のころ,水晶を探しに中に入ったことがあります。コウモリも生息していたようです。

○鉱山跡(2)
鉱山の岩肌にも緑が戻ってきました。

○鉱山跡(3)
つり橋から上流を見たところです。カヌーが近づいてくるのを目撃しました。

平成16年度の主な事業
○鉱山跡(4)
鉱山前の吊り橋から
古座川のカヌー下りは観光スポットになっています。

○鉱山跡(5)
鉱山入り口に車を止めて。
この辺りは昔のイメージのままでした。
道路は砂利道からアスファルト舗装に変わっています。

○学校が見えました
蔵土のトンネルを抜けて,正面に三尾川小学校の校舎がかすかに見えます。


平成16年度の主な事業
○三尾川橋バス停
橋のたもとの懐かしい三尾川バス停留所。左折して橋を渡ると学校にたどり着きます。住まいのあった真砂地区へは直進してさらに5km先になります。ここはまず,住居のあった佐田方面に向かうことにしました。

○小・中学校への通学道路(1)
端郷(はじこ)地区の道路。もちろん当時は砂利道。

○通学路(2)
学校から3kmぐらいの地点です。通称「赤土」と呼ばれた,きり通しのところです。ここに家が建っていてビックリしました。かつては,右側が栗林,左側はヒノキを植樹したばかりで,見通しの良いところでした。樹木がうっそうと茂って,昼なお暗き道です。間伐や枝打ちはされていないようです。


平成16年度の主な事業
通学路(3)
下真砂(しもまなご)の近くまで来ました。とにかく杉や檜が大きく育っていて,川の見える撮影スポットは少なくなっていました。

通学路(4) 真砂(まなご)地区
やっと真砂に辿り着きました。40年ぶりの街です。建物は昔とほとんど変わっていません。しかし,人の気配が感じ取れません。三尾川橋からここまで,出会ったのは車一台と,人が1名だけでした。

真砂地区
家並みは昔のままでしたが,どの家も苔むしており,人の気配がありませんでした。

平成16年度の主な事業
真砂地区(廃寺)
小学2年生の頃,分校の立替工事期間,このお寺の本堂を教室代わりに勉強しました。当時複々式学級で,1年生6名,2年生3名,3年生2名でした。4年生からは本校の三尾川小学校に通いました。

通学路(5) 真砂(まなご)バス停
思い出のバス停。全てはここから出発しました。このカーブの先には真砂橋があります。

真砂バス停周辺
バス停より下手を撮影。右側の黒い建物はこの地区唯一の商店で,松村商店というよろず屋でした。その隣は郵便局でしたが,今は無人のようでした。
この地区は昭和27年から31年頃のダム建設期間中は工事関係者数百名を擁し,映画館もあって,かなりの賑わいでした。
平成16年度の主な事業
真砂バス停周辺
この階段を上ると,2間幅の石畳道路があります。かつては銀行,旅館,芸者置屋があったそうです。ダムが出来るまでは川舟で運ばれた物資はここで陸揚げされ,炭などの物資はここから船で運ばれ,古座川における物流の中継点として栄えたそうです。詳しい説明は次の看板をお読みください。



真砂バス停周辺
この橋を渡ると発電所とかつての住居が見えます。

平成16年度の主な事業
佐田発電所
砂橋から撮影。左の建物の奥にかつての住居がありました。発電所建設当時は県関係者の住宅が15軒と単身赴任者の寮が2棟建っていました。今では立て替えられた1軒のみでした。

真砂橋から下流を撮影
水位はかなり高いようです。発電所がフル稼働しているのでしょう。やはり水は濁っていました。非常にガッカリさせられました。

故郷の柿の木
10歳の頃登った柿の木も撮影しました。樹齢はあの当時から確実にプラス50年です。

平成16年度の主な事業
発電所職員用公舎跡周辺

かつての住居跡です

公舎は取り壊されて更地になっていました。小学4年生から,父が有田川に転勤するまでの約10年間,この場所に住んでいました。語りつくせないほど,思い出深い処です。

かつての住居跡です(2)
庭に野菜畑や花壇などもありました。石垣近くの椿は今も花を咲かせています。後ろの竹薮は当時地元の農家の方が畑を耕していました。今は竹薮に飲み込まれています。やがては,この住居跡にも押し寄せてくることでしょう。
平成16年度の主な事業
佐田発電所を上方から撮影
45年前は,2階の窓辺に父の姿を見ることができました。砂防えん堤の手前は冒頭で紹介した鋼構造ジャーナル誌「暖流」の舞台です。

クローズアップしました
このような淵が周辺に数ケ所あります。

発電所の放流口
つり橋の下から右側にかけて岩石と砂利で完全に埋まっていました。ここも以前は深いところで,泳いだり魚を獲った場所です。大雨が降って,ダムが大量に放流すると,一夜にして川床の形が一変します。いづれまた淵となる時も来るでしょう。

平成16年度の主な事業
発電所上から下流を撮影
遠方に見えるのは真砂橋。木の枝で隠れていますが,右端中央にある竹薮の下が住まいのあったところです。

古座川ダム(七川堰堤)
建設当時から数えて50年,コンクリート面にはコケが張り付いていました。歴史を感じるとともに,自らの人生を重ね合わせました。当時は今と違って,建設現場への立ち入りは子供でも自由で,大して注意もされませんでした。頻繁に建設現場を見に行ってました。ものが造られていく過程を見る楽しみは,この頃の体験から醸成されたのかも。

古座川ダム湖
予想以上の濁水です。全国各地を旅行するたびにダム湖水の状況は注意して見ています。栃木県の五十里ダムは同時代に作られたものですが,これほどは濁っていません。何故ここは白濁しているのでしょうか。地質的な問題があるのか,解決策を見出し,少しでも古座川の清流を取り戻したいものです。

平成16年度の主な事業
古座川の清流編はここまでです
古座川の清流探訪は,結論としては「清流は戻っていない」でした。ただし,ダム湖水の色が40年前とは変化していました。以前の土砂による濁りから異質な濁りに変化したように見受けられました。つくば市の国土交通省土木研究所の知人にこの件について話したところ,早速「水環境研究グループ水質チームの研究員」のご見解を得ることが出来ました。白濁しているのは「アオコ」が原因で,その原因として湖水中層以下が貧酸素層状態になっているのではないかということです。これに関係するURLを紹介します。続いて,母校編です。再び三尾川地区に戻りました。

三尾川橋
古座川ダムから三尾川まで戻ってきました。なつかしの小,中学校に向かいます。この橋は中学2年(昭和35年)のころに付け替えられました。それまではつり橋でした。写真からもお分かりのように,鋲構造です。鋲打ち作業を興味津々で見ていました。

三尾川橋のバス停
朽ち果てた停留所標識。過疎を象徴しています。時刻表を見ると,スクールバスを兼ねた「ふるさとバス」が朝夕各1本だけの運行でした。

三尾川橋から上流を撮影
ここから上流6kmの古座川ダムから戻ってきたところです。

平成16年度の主な事業
三尾川橋から下流を撮影

橋を渡って学校に至る道

右側には「和田商店」「山崎商店」の建物が見えます。日曜日なので店は開いていませんでしたが,閉鎖ではないようです。右側の床屋さんは建物だけが残っていました。

三尾川小学校 校門の階段
階段脇を自転車に乗ったまま降りて,危ない目に遭いました。

三尾川小学校
わが母校の古座川町立三尾川(みとがわ)小学校。木造校舎から鉄筋コンクリート2階建てになっていました。懐かしいグラウンドです。

平成16年度の主な事業
校門の桜とバックネット
運動場内の桜の古木の姿はありませんでした。しかし,校門近くの桜がこれに代わる大きさになっていました。

三尾川小学校 バックネット
お世話になった思い出のバックネット。このネットに引っかからないボールは下の谷川まで探しに行きました。小学校4,5年生と中学1年生。都合3年間貴重な玉拾いの修行をしました。経験上,ファールボールのとんだ方向から,ボールが崖に引っかかっていそうな所はおおよそ見当がついており,回収率は相当なものでした。

バックネット側からライト方向
この運動場で野球,運動会ドッジボール・・・。思わず,グラウンドを走ってしまいました。奥に見えるのは三尾川中学校の校舎です。照明設備があるのにビックリしました。

平成16年度の主な事業
紅梅の木も残っています
紅梅の木は健在でした。学芸会では枝を切って,舞台を飾ったこともありました。

三尾川小学校
創立100周年の記念碑を見つけました。昭和30年当時200名を超えた児童数も,今では七川からの児童を含めて20名程度だそうです。

廃校となった三尾川中学校
古座川町教育委員会に問い合わせたところ,生徒減少のため,平成3年から休校,平成16年廃校とのことでした。窓の下側はアルミサッシになっていますが,高い方の窓は元のままでした。校舎の外観も昔のままです。「青春の墓標」と化していました。過疎は悲しいものです。 感無量!

平成16年度の主な事業
三尾川中学(2)

学校下の農協

お世話になった農協(JA)の建物,現在も使われているのかは不明です。

「故郷を訪ねる旅」学校編の終わりに
40年ぶりの故郷訪問は,三尾川小・中学校でおしまいです。紀伊勝浦のホテルを出発して,小1時間で古座川町に入りました。短い時間でありましたが行く先々で,過去に刻み込まれた記憶が大脳皮質の中から呼び戻されました。
写真につけた解説文は,かなり情緒的になってしまったキライもあります。40年ぶりのこととて,ご寛容いただければ幸いです。
本日中に千葉に戻らねばなりません。地元に残られておられる数少ない旧友には申し訳ありませんが,このまま黙って帰宅します。
遠足で歩いた県道39号線「矢鱈の坂」を通って和深経由で国道42号線に入り,そして思い出の「周参見」や「見老津」の海岸を見て帰途につきます。

平成16年度の主な事業
道の駅 イノブータンランドすさみ
14時ごろ道の駅で一休み。
この後,阪和,名神,東名を走って千葉に戻ったのは午前零時を過ぎていました。
かなりの強行日程でしたが,無事帰宅することが出来ました。

周参見の海岸
中学のとき,遠足で2度来ました。